聞文読報

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7月23日 李登輝 元台湾総統 記者会見(全文) 『日本外国特派員協会』

※2015年7月23日『日本外国特派員協会会見』より

日本外国特派員協会のピーター・ランガン副会長をはじめ、会場にお集まりの特派員の皆さま、こんにちは。台湾からまいりました、李登輝です。

今回、国会における講演のご招待を頂き、昨日は多くの国会議員の先生方を前にお話しすることが出来ました。そして今日は2007年6月以来8年ぶりにこちらに伺い、ふたたび講演する機会を得られましたことを、たいへん光栄に感じております。

8年前は念願だった奥の細道を訪ねる旅の最終日に、こちらの協会で講演したと記憶しております。その時、私のとなりに座っていた中嶋嶺雄*1先生も、今では故人となられ、年月の流れを感じずにはいられません。

その一方、この8年間で中国は経済的にも発展を遂げ、国際社会における発言力を増してきたと同時に、ますます領土拡張の野望を剥き出しにしてきています。これは、それまで世界の政治の方向性を主導する立場にあったアメリカの発言力が落ちてきていることと無関係ではありません。

かつてはアメリカを先頭に日本など先進5カ国(いわゆるG5)が世界の経済や政治の進むべき方向性を決めていましたが、先進国の力量が軒並み落ち込み、新興国の発言力が強くなってきたことで国際関係が多様化し、その結果、世界全体を取りまとめる能力と経済力を持つ国、もしくは組織が無くなりました。言い換えればグローバルなリーダーの不在、つまり国際秩序が崩壊したともいえるでしょう。アメリカの政治学者イアン・ブレマーはこうした状況を〔G0の世界〕と呼んでいますが、私としては「国際社会に戦国時代が到来した」と呼びたいところです。

こうした混沌とした時代に直面し、常に私の頭を離れることがないのは、我が台湾の行く末についてであります。そこで今日は『台湾の主体性を確立する道』と題して皆さまにお話したいと思います。

台湾の主体性を確立する道

台湾は移民によって構成された社会です。

もう一度言いますと、台湾は移民によって構成された社会です。

有史以前から台湾の平地や山地に暮らしていた原住民、対岸の福建などから海を渡って台湾にやって来た漢人、中国人、客家と呼ばれる人々、そして戦後になって中国大陸から渡ってきた外省人たちを主として構成されています。ただその一方で、この400年の間に6つの外来政権によって支配され、清朝時代には《化外の地*2として版図にすら組み込まれない時代さえありました。

1895年、下関で日清戦争講和会議が開かれ、台湾の割譲について話し合われましたが、日本側の代表である伊藤博文に対し、清朝側の李鴻章はこう言ったといいます。

「台湾は非常に治めにくいところです。3年に一度は小さな乱が、5年に一度は大きな乱が起こる。清朝の管理の行き届かない化外の地です」

それに対し伊藤博文は「台湾は日本が引き受ける」と割譲を受け、そしてその言葉どおり、台湾はその後50年間にわたる日本の統治によって、前近代的な農業社会から近代的な社会へ変貌を遂げることになります。

ただし現代においても、台湾が移民社会であることは変わっておりません。とはいえ総統時代の私は、このような移民社会を率いる上で、民族間の対立はなんとしても解消しなければならない問題でした。それまでのように、本省人外省人、または原住民などと、台湾の人々自らが区別していては、台湾人としてのアイデンティティの確立など不可能です。当時の私は、これからの台湾はこうした祖先の生まれた場所が異なる人々の枠を取り去り、新しい国を作り上げていくよう導いていかなければならないのだと、背筋の伸びる思いがしたものです。

1994年の春、私がまだ現役の総統だった頃ですから、もう20年以上も昔の話です。作家の司馬遼太郎先生が、『台湾紀行』*3の執筆に一段落がついたということで、台湾を再び訪問されることがありました。その前の年にお会いした時、「来年の四月にはまた来ますから」との約束どおり、私を訪ねてくれたのです。その際に対談をしましょうということになり、私はどんなテーマで司馬先生とお話したらいいだろうと家内に相談したところ、〔台湾人に生まれた悲哀〕というテーマはどうだろうかということになりました。400年以上の歴史を持つ台湾の人々は、台湾人として生まれながら台湾のために何もできない悲哀がかつてあったのです。

私は台湾に生まれ、台湾で育ち、台湾のために尽くしてきました。そんな私にとって故郷、台湾への思いは尽きることはありません。同時に、台湾の人々がこれまで長期に渡り外来政権によって抑圧されてきた悲哀を思うと、憤慨せずにはいられないのです。私はこれまで、台湾がいつの日か主体性を確立させ、台湾の人々の尊厳が高まることだけを望んできました。

後に私は政治の世界に入り、最終的には総統を12年間務めるという偶然のチャンスに恵まれることになりましたが、そこで私は台湾のために全力で働こうと決心したのです。そして台湾を外来政権の支配から解き放って自由な国へ、そして台湾人として生まれた悲哀を台湾人として生まれた幸運へ、これこそ私が人生を賭けて力を注いできた目標なのです。

1945年、台湾を統治した外来政権たる日本は大東亜戦争*4に敗れ、台湾を放棄しました。台湾は戦勝国である米英などによって、中国国民党による占領下におかれることとなり、中華民国という別の外来政権による統治が始まったのです。

ただ、50年に及ぶ日本の統治によって著しく近代化されていた台湾にとって、文明水準の低い新政権による統治は、台湾人には当然のごとく、政治や社会における大きな負の影響を及ぼしました。二・二八事件*5の原因は、台湾と中国という二つの異なる文明の衝突だったといえるでしょう。

そして1996年、数百年来ずっと外来政権の支配下にあった台湾で、初めて国民が選挙で総統を直接選んだことによって、やっとその呪縛から逃れることができたのです。

日本統治時代、学生が教室で台湾語を話したというだけで、運動場に正座させられる差別的な罰を受けました。しかし日本の統治が終わり、中国国民党(中華民国)の時代になってもなんら変わることがありませんでした。

こうした状況下で、台湾人の間には〔新しい時代の台湾人とは何か〕という問題が沸き起こってきました。それまでの外来政権、たとえば日本統治時代には、台湾人は日本人と比べ差別待遇を受けていました。しかし中華民国も、台湾が祖国に復帰したと称え、台湾人の同胞と呼びながら、やはり二等国民として取り扱っていたのです。

その後、二・二八事件の発生を受け、台湾人自身が台湾人とは何かという煩悶を徹底的に繰り返すようになると同時に、外来政権ではなく自分達の政権による主体性を確立しなければならないと悟ります。そうでなければ、尊厳ある台湾人として独立した存在になることはできないと気づいたのです。そして新しい時代の台湾人としての自覚が覚醒していったのです。

そうした意味では、台湾人による強固なアイデンティティの確立は、外来政権による抑圧の産物といえるかも知れません。まさに台湾人が、自身を独立した台湾の国民とする絶対意識を獲得する契機となったのが、外来政権による支配なのです。

当時、台湾人は二つの外来政権の境界線上に立っていたともいえます。そうした状況は、私の自我意識の形成にも非常に大きな影響を与えました。自分が生まれた時は日本人、戦後は中国人という二種類の人生、二つの世界、二つの時代の境界に生きるという人間なのだと、意識せざるを得なかったからです。

数年前台湾で出版した『新しい時代の台湾人』という本の中で、私は次のように述べました。

すでに民主化を成し遂げ、民主国家となった台湾が、再び民族国家に立ち戻るべきではない。大中華思想というまやかしから、脱出しなければならない。台湾の国民による共同体意識は民主的であるべきで、決して民族的であってはならない。そうしたことから、私が提唱する〔新しい時代の台湾人〕というのは、民主社会において、国民意識を持った人々の総称なのだ。

新しい時代の台湾人とは、決して総人口に占める割合が最も多い民族が主体となって台湾民族を構成するのではありません。一視同仁*6の観点に基づき、すべての人々が平等な国民であるとみなされるべきです。

この新しい時代に台湾で生活する2300万の人々は、精神改革に取り組み、新たな意識を持たなければならないことを自覚しなければなりません。そして主体的な思想変革を実現しなければならないのです。〔新しい時代の台湾人〕という自覚を持つことによって、ここに初めて自分が何者か、台湾人とは何かというアイデンティティを確立することが可能となります。

自分自身を一人の独立した台湾人だと絶対的に認識することによって、過去の自我が救われます。新たな思考を持つことで過去を否定し、新しい未来を顕出するのです。その結果、台湾の民主化はより一層深まり、さらに新しい民主的かつ自由な台湾が作り上げられることになるでしょう。

託古改制

続いて中国語『託古改制(たっこかいせい)』についてお話したいと思います。

託古改制とは「古に照らして制度を改める」という、旧態依然とした制度を重んずる考えです。中国大陸の歴史を紐解けば、5000年の歴史上脈々と帝国体制が受け継がれてきました。こうした体制こそが、中国の法統です。この法統という体系から外れたものが化外の民であり、夷狄の国々なのです。それゆえ中国人の特色とは〔一つの中国の概念〕であって、中国大陸5000年の歴史は、すなわち〔一つの中国の歴史〕でした。

現在の中華民国も、中華人民共和国も、共に中国大陸5000年の歴史の延長に過ぎず、ここから見て取れるのは、中国大陸は未だに進歩と退歩を絶え間なく繰り返している王朝に過ぎないということです。となるとドイツの社会学マックス・ヴェーバーが、〔中国をしてアジア式の発展停滞〕と論じていますが、これは決して誤りではありません。

孫文が建国した中華民国は、理想を宿した新しい政体ではありましたが、残念ながら政局の困難によりその実現は夢と終わり、基本的には中国式の法統の延長線上にある政体に成り果ててしまいました。

中華人民共和国はその源をソビエト共産党に発するものの、中国大陸に建国された以上中国文化の影響から逃れ得ずにはいられません。毛沢東に始まり以後の鄧小平、江沢民に続くまで、表面上は共産主義ではあるものの、その統治政策を見ても共産党は早々と中国化していたのです。香港返還による1国2制度もまた、中国固有の産物であり、決して鄧小平が発明したものではありません。

ここで指摘しておかなければならないのは、共産革命が中国大陸にもたらしたのは、中国をアジア式の発展停滞から脱出させることでもなく、中華思想から抜け出すことでもありませんでした。それはまさに中国伝統の覇権主義の復活であり、誇大妄想を有する皇帝制度の再来だったのです。

中国大陸5000年の歴史は一定の時間と空間の中で、ひとつの王朝から次の王朝へと連結する歴史であり、新しい王朝といえども、前の王朝の延長に過ぎません。歴代の皇帝は権力の座の維持、国土の拡大、富の搾取に汲々とする以外、政治改革への努力を払うことは稀でありました。これこそがいわゆるアジア的価値観というものです。

今年の3月、シンガボール建国の父と謳われた李光耀が亡くなりました。私と同じ歳ということもあり、何かと比較の対象として引き合いに出されましたが、はっきり申し上げたいのは李光耀氏と私の思想は全く異なるということです。『文明の衝突』を著したハーバード大学のハンティントン教授は、「李登輝が死んでも台湾の民主主義は残るが、李光耀が死ねばその制度は失われる」と評しました。まさに李光耀氏が執ったのはアジア的価値観に発する同属支配体制であり、私が推し進めたのは自由と民主を尊重する世界的価値だったからです。

中国大陸の歴史上、政策・政治改革というものが何度か起こりましたが、惜しむらくはどれも成功しなかったことです。歴代皇帝の統治を見てみると、どの王朝も疑いなく託古改制のゲームに終始していると言わざるを得ません。託古改制とはいうものの、実際は託古不改制という方がより史実に即しているでしょう。5000年の閉鎖された皇帝制度に対し、魯迅は次のような見方をしています。

これは目に見えない壁に幽閉された中で、何度も繰り返され上演される芝居であり、古い国の中で螺旋状に回帰していくつまらない舞台である。

魯迅の表現は中国人の民族性を的確に表しています。

中国人とは争乱の首謀とならず、災いの元凶とならず、最初に幸せをつかもうともしない民族である。これではあらゆる物事の改革を進めることができず、誰も先駆者や開拓者の役割を担おうとしない。

私はこの魯迅の観察は、かなり的を得ていると感じます。

ここで私は新しい改革の方向性として、脱古改新(だっこかいしん)という新しい思想を提唱したいと思います。

脱古改新

脱古改新とは「古を脱し新しく改める」、つまりはアジア的価値観からの離脱ということです。中国の法統による託古改制は、もはや近代の民主化の潮流に見合わないことは明らかです。

脱古改新の目的は、託古改制の害毒であるアジア的価値観を捨て去り、中国の法統から逃れ、台湾を主体性のある民主国家にすることにあるのです。台湾にとって脱古改新が必要なのは、とりもなおさず台湾自身の問題であり、中国から派生する問題でもあります。

1988年、私が総統の任に就いた時に描いた、台湾という国家の戦略は次のようなものでした。この当時の国民党政権(中華民国)による独裁的な統治は、まさにアジア的価値観の見本ともいえるような状況でありました。政権内部には保守と革新の対立、閉鎖と解放の対立、国家的な民主化運動と独裁体制の衝突、台湾と中国の間における政治実態の矛盾など、深刻な問題が山積していました。特に民主化を求める国民の声は、日増しに大きくなっていたのです。

全体的に見るとこれらの問題を抱える範囲は非常に大きく、その根本的な問題は台湾の現状に則していない中華民国憲法にあったといえます。そのため、私はこれらの問題解決のためには憲法改正から始めるしかないと考えたのです。

当時私は国民党主席を兼務しており、国民大会では国民党が絶対多数の議席を有していました。言い換えれば当時の国民党は、絶対的に優勢な政治改革マシーンでありました。

ただ問題は、党内部の保守勢力でした。保守勢力は時代遅れの憲法への執着を隠さず、その地位を放棄することにも大反対でした。民主改革を求める民衆の声には耳を貸さず、ただ政権維持だけに固執したのです。さらに国民党を牛耳る有力者たちは大陸反攻、つまりいつの日か中国大陸を取り戻すという野望を捨てきれずにはいられませんでした。

そこで私は一計を案じ、国家統一綱領を制定して、中国の自由化、民主化、所得配分の公平化が実現された際には、統一の話し合いを始めるという厳格な規定を設けました。私は、中国が自由化・民主化されるような日は半永久的に来ないと思っていましたし、仮にそうなった場合には、その時にお互い再び話し合えばよいと考えたのでした。

ただ、この国家統一綱領を作ったおかげで、それまで私に猜疑心を抱いていた国民党の有力者たちは、安心して総統の私を支持してくれるようになったのです。

こうした一連の民主化の過程において、私は幾多の困難にぶつかったとはいえ、終始国民からの支持を受けながら、経済成長の維持と社会の安定を背景に、ついに一滴も血を流すことなく、6度にわたる憲法改正によって、静かなる革命を成就させました。

憲法改正の主な目標には動員戡乱時期を終わらせ、動員戡乱時期臨時条款*7を廃止すること、地方民意代表のすべてを台湾の有権者による選挙で選出すること、有権者の直接投票による総統選挙を行うことなどが含まれ、これらを相前後して実現させていきました。そして民主主義という大きなドアを開けたのみならず、中華民国は台湾にありというあらたなステージへ押し上げたのです。長らく推し進めてきた台湾の主体性を有した政権は、この頃に完成されたといってよいでしょう。

1999年、ドイツの放送局によるインタビューを受けた際、私はより明確に、台湾と中国は特殊な国と国との関係であると言い切りました。この特殊な言葉を制限せず、外交関係において非常に多様で特殊な立場に置かれていると。台湾と中国の境界をこれによって鮮明にしたのです。

半世紀以上もの間、台湾問題とはすべからく中国との関係においてでした。中国との関係をきちんと整理することで、台湾に長期の安定をもたらされるようにしたのです。

さらに台湾が主体性を有する国家となるためには、文化建設もまた重要でした。そのため私は政治改革を進める一方で、教育改革、司法改革、そして精神改革を唱えることも忘れませんでした。

中国的文化の色彩を弱め、様々な分野で台湾の主体性を有した文化を確立させたのです。台湾の国家的基礎を固めるため、私はこの改革を新中原文化の確立と呼んだのです。

台湾の民主化の成功、新しい文化の確立、対中関係の整理は、託古改制から脱古改新への転換のプロセスによって実現されました。そしてアジア的価値観を否定するという目標を達成し、新しい時代の台湾人という新概念を確立させたことは、あらゆる分野における価値感の転換だったのです。

本日は台湾の主体性を確立する道と題して皆さんにお話しました。ご清聴いただきありがとうございました。

※この聞書は李登輝氏の日本語による会見を聞文読報が文字に起こし、発言内容をより理解しやすくするために独断で再構築・編集したものです。

*1:(なかじま みねお、1936年5月11日 - 2013年2月14日)は、日本の政治学者。専門は現代中国政治。東京外国語大学名誉教授・元学長、国際教養大学学長、公立大学法人国際教養大学理事長。社会学博士。

*2:中国による支配の及んでいない地域

*3:(たいわんきこう)は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第40巻。

*4:(だいとうあせんそう、旧字体: 大東亞戰爭、英: Great East Asia War)は、大日本帝国アメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦中華民国などの連合国との間に発生した戦争に対する呼称で、1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が支那事変日中戦争)も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。敗戦後には、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、太平洋戦争などの語がかわって用いられた。

*5:(にいにいはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との大規模な抗争。1947年2月27日、台北市で闇菸草を販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。

*6:だれをも差別せず、すべての人を平等に見て一様に仁愛をほどこすこと。

*7:(どういんかんらんじき-りんじじょうかん)は、かつて中華民国憲法にその一部をなす「臨時」の修正条項として追加された規定である。1948年から1991年まで修正を重ねながら43年間存続し、憲法本文を凍結し、世界最長とされる、38年間にわたる戒厳体制を敷くことを可能にした。