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9月15日 坂元一哉(公述人 大阪大学 大学院 法学研究科 教授)の意見陳述(全文) 参議院『平和安全特別委員会・中央公聴会』

※平成27年9月15日、参議院『平和安全特別委員会・中央公聴会』より

大阪大学の坂元でございます。政府が「平和安全法制」と名づけました安全保障関連法案について、法案成立に賛成する立場から、意見を述べさせていただきます。

およそ国家国民の平和と安全を守ることは、政府の最も重要な義務であります。また我が国国民も、他の国、他の国民と同様に、ますます相互依存を深める世界の中に生きており、したがって政府は、国際社会全体の平和と安全への貢献も考慮に入れて、その政府の最も重要な責務を果たさなければなりません。

この観点から見た時に、今回、政府が提出した安全保障関連法案は、我が国自身の安全のための抑止力を格段に強化し、我が国の平和もその一部であります世界平和に、よりよく貢献する能力を増やす、よく考えられた法案だとわたしは評価し、その成立を願っております。

法案が成立すれば、我が国は、これまでよりさらにしっかりした、平和と安全保障の体制を持つことができるでしょう。我が国を取り巻く国際環境が、一段と厳しさを増す中で、それはどうしても必要、かつ望ましいことだと考えます。

ただ、わたくしが、この安全保障関連法案を評価いたしますのは、「国家国民を守る」という観点からだけではなく、「憲法を守る」という観点からでもあります。

しっかりした平和安全保障の体制がなければ、国家国民を守ることはできません。そしてもし、国家国民を守ることができなければ、憲法も守ることはできないでしょう。ただ、それと同時に大事なことは、「憲法を守ることなく、しっかりした平和・安全保障の体制をつくることはできない」ということ。この明白なことが、今度の法案を評価する際の大前提になるのは、改めて言うまでもないことだろうと思います。

わたしがこの安全保障関連法案を、日本にとって必要だと考え、望ましいと思い、その成立を願うのも、この2つの観点から評価した上でのことであります。そのわたしの評価について、少し説明させていただきますが、時間の関係もありますので、後者の観点からの評価を中心にすることにしたいと思います。

前者につきましては、以下4点。

まず、この安全保障関連法案が、〔集団的自衛権の限定行使〕、〔アセットプロテクション〕、〔装備品の防護〕、あるいは〔後方支援の拡充〕などにより、日米同盟の同盟協力を格段に強化し、同盟の抑止力を飛躍的に高める法案であること。

次に、いま、日米同盟の抑止力を高める必要があるのは、安全保障環境が一段と厳しくなる中で、それが、国家と国民の安全をよりよく守るために、必要かつ適切な手段であること。

3つ目に、安全保障環境についていえば、北朝鮮の核開発の脅威は相変わらずですが、それにもまして、中国の急速な軍事力増強が脅威になっており、尖閣諸島の問題もありますので、言ってしまえば、海を隔てた核保有の隣国が、海・空軍力を急速に増強して、『その島は俺の島だから返せ』というような、容易ならざる状況になっていること。

そして最後に、日米同盟の抑止力の強化は、その中国との偶発的な軍事衝突の可能性を大きく減らすだけでなく、我々が、中国の軍事力に脅かされることなく、中国と互恵・対等の関係を築くのに役立つこと。

この4点を指摘するに留めたいと思います。

その上で、「憲法を守る」という観点からの評価ですが、最も注目されている論点は、やはり、『たとえ限定的であっても、集団的自衛権の行使を容認する法律は、憲法違反ではないか』、という点だろうと思います。ご承知のように、この点につきましては、多くの憲法学者が『憲法違反だ』と批判しているわけであります。

集団的自衛権の限定行使容認は、政府が、与党と共に長い時間をかけて慎重に検討した、関連法案のまさに柱となるところであります。したがって政府にとって、批判は残念なことでしょうが、専門家がそう批判する以上、政府は、政府の考える集団的自衛権の行使が、なぜ憲法違反でないのか、より一層、丁寧、かつわかりやすく説明する必要があります。

言うまでもなく、ある法律が憲法違反に当たるかどうかを最終的に判断するのは、〔最高裁判所の仕事〕です。その意味で、いま政府が、政府がいう意味での、集団的自衛権の限定行使を容認する法案が、憲法違反に当たらないとするのは、学者の批判が正しいか、正しくないかは別にして、この法案が、国会の審議を経て現実に法律になり、その法律に関連して訴訟が起こったとしても、最高裁判所憲法違反の判決を下すことはない、そう判断しているということだろうと思います。

政府がそう判断する根拠は何かといえば、1959年、最高裁の〔砂川事件差し戻し判決〕。安保条約に基づく米軍駐留が、合憲かどうかを争った、この裁判の判決の中で最高裁は、「憲法の平和主義が、決して無防備・無抵抗を定めたものではない。」と述べ、その上で、「我が国が、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと。」としております。

また、この判決は、たとえば「安保条約が違憲かどうか」というような、主権国としての我が国の存立の基礎に、極めて重大な関係をもつ、高度の政治性を有する問題は、〔一見極めて明白に違憲無効〕であると認められないかぎり、〔裁判所の司法審査権の範囲外〕との判断も示しています。

この砂川判決を前提にすれば、最高裁判所が将来、政府がいう意味での集団的自衛権の限定行使について、違憲判決を出すようなことはない、政府がそう判断したといたしましても、わたしには、ごく当然の判断であるように思います。

といいますのも、政府が、今度の安全保障関連法案と、新しい武力行使3要件で可能になるとする武力行使国際法でいえば、集団的自衛権の行使に当たる武力行使は、あくまで、砂川判決にいう、〔国の存立を全うするための自衛のための措置〕としての武力行使、それも〔必要最小限の武力行使〕だからであります。

政府はこれまで、「憲法上、自衛のための措置として、必要最小限の武力行使ができるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限る」、としてきました。

それを、新しい憲法解釈では、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても、それによって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が、根底から覆される明白な危険があるならば、そして、ほかに手段が無いならば、〔自衛のための措置としての必要最小限の武力行使〕ができる」としているわけであります。

たしかに、この自衛のための措置は、他国の防衛、つまり他衛を含みます。ですが、自衛が同時に他衛にもなるからといって、それを最高裁が〔一見極めて明白に違憲無効〕と認めるとは、考えにくいのではないでしょうか。

憲法の前文には、日本国民だけでなく、全世界の国民が等しく平和的生存権を持つこと。また、我が国が、自国のことのみに専念し、他国を無視してはならないこと。平和の維持などに努力している国際社会で、名誉ある地位を占めたいと思っていること。こう謳っているのですから、なおさらだと思います。

実はわたくしは、この前文によって、自衛だけではなく、それと直接関係のない他衛のための武力行使も、それが国際法上合法で、かつ必要最小限のものに限れば、場合によっては憲法上可能になるのではないか、少なくとも、〔一見極めて明白に違憲無効〕にはならない武力行使もあるのではないかと、考えておりました。

しかし政府はそうした考え方をとらず、自衛とは関係がない他衛、他国や他国民の平和と安全に関しましては、「武力行使以外の手段で対応する」と、「武力行使はしない」としています。

わたしの考えと比較していえば、最高裁違憲判決を出す可能性ははるかに小さいでしょうし、国際社会と国連の現状をよく考えてみますと、憲法の平和主義を守るには、よりふさわしい解釈かもしれないと、いまは考えております。

無論、この安全保障関連法案が成立したとして、万一、最高裁が、その成立した法律を違憲だと認める、その可能性は低いと思いますが、もしそういうことになれば、その法律は改正しなければなりません。そういう前提で法案を審議するのが、立憲主義のルールだろうと考えます。

最高裁の砂川判決に関しましては、『この判決でいう〔自衛のための措置〕とは個別的自衛権のことであって、集団的自衛権は含まれない』と議論する人がおられます。わたくしはこれは、国際法上の集団的自衛権の意味を誤解した議論だろうと思います。

なぜなら、砂川判決にいうところの〔自衛のための措置〕とは、もちろん自国を守るための措置のことですが、「個別的自衛権」も、「集団的自衛権」も、どちらも、〔自国を守るための措置〕として、国家に認められた国際法上の権利だからであります。

この点、政府が1972年に示した憲法解釈の中に、集団的自衛権の性格を、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする。」としている部分がございます。わたくしはこの部分は、国際法上の集団的自衛権の説明としては舌足らずの説明であって、その舌足らずのところが、その後の集団的自衛権に関する議論を混乱させてきたのではないかと考えます。

たしかに集団的自衛権は、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容としています。していますが、その〔目的〕は、あくまで〔自国の防衛〕であります。そこを明確にしてほしかったと思うのであります。

国際法上の集団的自衛権は、自国防衛のための権利であって、他国防衛のためのそれではありません。もし、他国防衛のための権利だとすれば、なぜ〔自衛〕と、〔自衛権〕という名前がついているのか、説明がいると思います。

また、たとえば米国は、日米安全保障条約上、集団的自衛権に基づいて日本を守ると、日本に対する武力攻撃に共同対処することになっていますが、それは条約第5条に明記してあるとおり、日本への武力攻撃が、「米国の平和及び安全」を危うくするからであります。日本を守る権利があるから守るというのではなく、自衛の権利があるから守るのであります。米国にとって日本防衛は、まさに〔自衛のための措置〕なのであります。

集団的自衛権という言葉は、個別的自衛権という言葉と同じく、70年前、1945年にできた、国連憲章の中で初めて使われた言葉です。しかし、その考え方自体は、これも個別的自衛権と同じく、それ以前から存在しておりました。

時間の関係で詳しくは申しませんが、たとえばイギリスは1928年、国際紛争解決の手段としての戦争を禁じた〔不戦条約〕を結ぶ際に、自衛権に関して留保をつけ、「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明確に述べております。

国連憲章第51条が、「集団的自衛権も個別的自衛権も、どちらも国家固有の自衛権だ」という書きぶりになっておりますのも、この権利が、国連憲章ができる前から存在する、〔自衛のための権利〕だと認めているからではないでしょうか。

いや、その理屈はわからないではないけれども、たとえ固有の自衛権だとしても、集団的自衛権は海外派兵への扉を開くのではないか、あるいはそういう心配が国民の間にあるかもしれません。

実際のところ、「集団的自衛権はいかなるものでも行使できない」という政府の従来の説明が、国民に支持されたことの大きな理由には、戦前の経験と反省から、「海外派兵は絶対にしたくない」という、国民の強い気持ちがあったのは確かだろうとわたくしは考えます。政府はその気持ちが、個別的自衛権の行使の問題にまで影響をしては困るので、「集団的自衛権は一切行使できない」とするようになったのかもしれません。

しかし政府は今回、たとえ集団的自衛権の行使を限定的に認めるとしても、海外派兵、すなわち自衛隊武力行使の目的で他国の領土・領海・領空に送ることは、憲法で一般に禁じられているとする、これまでの解釈は変わらないとしております。

そしてこの点に関連して、安倍総理は先月24日、この参議院での答弁におきまして、「たとえば朝鮮半島で有事が起こっても、日本が北朝鮮や韓国の領域内で集団的自衛権を行使して、戦闘に参加することは憲法上できない。」と明言されているわけであります。

「一般に海外派兵は、自衛のための必要最小限度を超える」という、従来の政府憲法解釈を踏襲したわけですが、これは、政府と国会の関係にとって、重要なことかと思います。

と申しますのも、この解釈は1954年、これは朝鮮戦争休戦の翌年になりますけれども、1954年に自衛隊が創設された際、この参議院が全会一致で行った、〔自衛隊の海外派兵を禁じる決議〕を踏まえたものだからであります。「海外派兵に関する従来の政府解釈を変更しない」というのは、この解釈が、国権の最高機関である国会の意思を反映したものであり、政府の考えだけでは変えられないものであることを示していると考えてよいのではないでしょうか。

だから今回、集団的自衛権の行使を容認しても、一般的な海外派兵への扉は固く閉ざされていると、そう申し上げたところで時間がまいりました。わたくしの陳述は、これで終わらせていただきます。

ご清聴、ありがとうございました。

発言者:坂元一哉大阪大学 大学院 法学研究科 教授)