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聞文読報

聞こえる言葉を文字に起こし、目で聴く読み物に変えて発信します。

9月8日 宮家邦彦(参考人 立命館大学 客員教授)の意見陳述(全文) 参議院『平和安全特別委員会』

※平成27年9月8日、参議院『平和安全特別委員会』より

宮家邦彦でございます。本委員会で、わたくしが意見を申し述べる機会をいただきまして、たいへん名誉に思っております。

さて、ある著名な憲法学者は、「外務省員はみんな、自衛隊に入って危険地域を経験すべし」と、こういうお話がありました。わたくしはもしかしたら、実戦はともかくといたしまして、外務省員とか自衛隊員よりもはるかに、実地の戦争経験があるのかもしれません。

わたくしは外務省で、アラビア語が専門でした。クウェートで研修旅行中に、イラン・イラク戦争が始まりました。初任地は、戦時下のバグダッドでありました。そして2年数ヶ月、在勤いたしました。湾岸戦争発生直後は、サウジアラビアに出張いたしました。2004年には、イラク戦争後のバグダッドに再び派遣をされました。特に、2度目の勤務というのは、2人の当時の外務省の同僚を喪った直後でございました。戦場に送られる兵士の気持ちを、わずかながらも理解したつもりでございます。

わたくしはもう、政府の関係者ではありません。本日は自由かつ率直に、自分が経験した、鍵括弧付きですが「戦争」ないし「戦闘」を含む世界の安全保障の常識と、わたくしが日ごろ思っていること、これを述べたいと存じます。

まずは結論から申し上げます。

今回の平和安全法案に反対する方々の主張、これまでのわたしの個人的な経験に照らせば、およそ安全保障の本質を理解せず、冷戦後の世界の大きな変化を考慮しない、観念論と机上の空論でございます。人によっては、「現実味を欠いている」と言う方もいらっしゃいます。「空想的平和主義」、「ガラパゴス平和主義」とおっしゃる方もいます。

このような議論が、いかに世界の常識からかけ離れているか。本日は時間の許すかぎり、委員の皆さまを通じて、国民の皆さまにご説明をしたいと思っています。

本日の議論のキーワードは「抑止」でございます。

冷戦時代ってのは、実に安定した時代だったのかもしれません。1950年に朝鮮半島で抑止が失敗いたしましたが、これを除けば、東アジアでは、基本的には抑止は効いた時代でございます。

ところが冷戦後25年たちまして、世界各地では現在、旧帝国による「不健全な民族主義」というものが、次々と復活をしつつあるように思います。これに伴い、各地で物理的な脅威も発生し始めております。最大の問題は、この種の国家ないし勢力には、抑止がきかない可能性があるということであります。

イラク戦争後のバグダッドで、わたしはイラクの内戦も見てまいりました。そして、これらからの経験で学んだことは、戦争というのは、「悪意のある勢力が、物理的な力をもって現状を変更しようとする時に往々として起きるものだ」ということでございます。これはわたくしの「安全保障の常識」でございます。

たとえば、イラン革命が生じた直後、湾岸地域には力の空白が生まれました。その力の空白を埋めようとしたのが、イラクフセイン大統領でありました。当時のイラクを抑止する国はありませんでした。

逆に、最近のシリアやイラクでは「イスラム国」が台頭しておりますけれども、これも、国際社会がシリア内戦に対して、「適切な措置をとらなかったこと」の結果でありましょうし、その国際社会の対応の中には、欧米諸国のシリアの現状を放置する動き、これもあったように思います。

このように軍事介入というのは、時に事態を悪化させることがありますが、同時に「非介入主義」というものも、同様に悪影響を及ぼしうるのでございます。

危機に際して「正しい措置をとる」ということは、決して簡単なことではありません。人間は錯誤をいたします。予想を超えるような事態が起きるからこそ、まさに危機なのであります。

戦争の抑止に失敗をすれば、悪意の勢力はいっそう勢いづきます。これが人間の歴史であります。いかに善意の勢力が平和を唱えても、いかに外交努力を重ねても、抑止は破れる時があるのです。今のウクライナ南シナ海、シリアっていうのは、その一例にすぎないのであります。

いま日本の国会で、特定の情況の下で危機的な状況は、起こりえる、いや起こりえないんだと、こういう議論が繰り返されておりますが、誤解を恐れずに申し上げますけれども、危機というものは、実は何でも起こりうるんです。何でも起こりうる。だからこそ、あらゆる事態に対応できるような法的枠組みを、あらかじめ準備しておかなければいけない。これがわたくしの理解でございます。

続いて、イラクでの経験を踏まえまして、わたくしが感じている「同盟の本質」についてお話をいたします。

2004年、サマワ陸上自衛隊の本隊が到着いたしました。わたくしは当時、バグダッドCPAという連合国暫定当局でしたか、日本政府の代表兼連絡係で出向しておりました。

本隊が到着する前と後で、CPAにおける日本の待遇は大きく変わりました。到着後は連合国の一員として、日本が得られる危険に関する情報、出席できる会議、待遇。これすべて、格段に向上いたしました。なぜでしょう。もちろん、自衛隊は戦闘部隊ではありませんでした。しかし彼らは、我々は、同盟国扱いになったのであります。

信頼できる同盟国があるからこそ、力で現状を変えようとする勢力への抑止力が高まるのであります。信頼できない国の部隊には「重要な情報」も「待遇」も与えない、これが世界の常識であります。こうやって国家は相互を守りあい、そして平和を保っているのであります。

逆に言えば、そのような関係を築けない国家との関係だけでは、いざという時に、他国は頼りにならないのであります。役に立たないのです。

このような現実を知れば知るほど、安全保障面での相互信頼を高める努力、これがいかに必要かということは、ご理解いただけると思います。

「現在審議されている法案など、整備する必要がないんだ」と主張される方の多くは、この法案が「戦争法案」だとか、「戦前の軍事大国化」、「軍国主義への道だ」などと主張をされる方もおられるそうです。本当にそうなんですか。

戦前の日本が失敗したのは、軍隊があったからではないでしょう。民主主義の下で、その軍隊に対するシビリアンコントロールができなかったことが問題なんですよ。

今の日本で当時のような軍国主義が再び起きると、本気で考えておられるんでしょうか。それほど我々は、今の日本の民主主義に自信がないんでしょうか。とんでもない、わたしはそうは思いません。

それどころかグローバルスタンダードから申し上げれば、日本の現在の法案では、平均的なNATOの加盟国と比べても、はるかにはるかに限定的な集団的自衛権しか行使いたしませんし、また行使できないのであります。これでどうやって日本を軍国主義化するんでしょう。わたくしは理解ができません。

もうひとつ、今国会での議論を伺っていて疑問に思うことがございます。それは、審議中に具体的な法案の内容について、あまり詳しい議論がなかったことであります。議論をしないでおいて、一方で説明不足だって言われても、これはなかなか理解できないのでありますが、今回の法案が、たしかに多数の法律の修正というものを伴う、「わかりにくい」という議論があることは承知しております。

しかし、その理由はちゃんとあるんです。最大の理由は、「ポジ・リスト」か、「ネガ・リスト」かの違いであります。

主要国の安全保障法制っていうのは基本的に「ネガ・リスト」であります。すなわち「禁止条項を列挙し、それ以外は実施可能」とする構造です。だからこそ各国は、シームレスな対応が可能になっています。

ところが日本では「ポジ・リスト」。すなわち「実施可能なもののみを列挙して、それ以外はできない」。このような虫食い状態ですから、臨機応変の対応をしようと思えばどうしても、いかなる危機的状況にも対応できるようにするためには、この「ポジ・リスト」を拡大していくしかないのであります。

だからこそ、基本の法令の修正が多くなってしまう。これはある程度仕方がないのかもしれません。もちろん、最もわかりやすい方法は、自衛隊法を「ネガ・リスト」にすればいいのかもしれません。ただしそうすれば、1955年以降、50年代以降の国会の答弁の積み重ねってのはいったいどうなるんだということを考えれば、やはり「ネガ・リストは採用しない」と決めた今回の判断は正しかったと思っています。

今回の法案では、「自衛隊員のリスクが高まるからけしからん、反対だ」という議論もございました。わたくしはこれは、国民の生命と財産を守るために命を懸ける自衛隊員に対して、極めて失礼な議論だと思っております。

自衛隊員はリスクをとるためのプロフェッショナルであります。だからこそそのために必要な訓練を行い、そして必要な装備と充分な情報をもって仕事をする「専門家集団」であります。

たとえば、巨大火災が発生して、消防隊員に「いやこれまでは・・・、こんな危険な火事だから行くな」と言うんですか。「出動するな」と言うんでしょうか。火事が拡大した今こそ、消火が必要でありましょう。そのためには、プロは日頃から実力を養っておくのであります。消防隊員と自衛隊員が、いったいどこが違うんですか。

続いて、憲法問題。特に集団的自衛権に関する議論について、いくつか申し上げたいと思います。

過去55年間の日本における安全保障議論。強く感じますことは、安保を批判する、批判的に論じる人ほど、軍事問題、安全保障の問題について、あまり知識が充分でないという実態、現実でございます。典型例が「武力行使との一体化論」であります。

この概念の是非。わたくしはいつも言うんですが、「わからなくなったら英訳してみなさい」と。英語に訳せればわたくしは、ロジックが通る、わかりやすい概念だと思うんですが、残念ながら護憲派のある憲法学者も、「これは、“一体化”は英訳できません。日本でしか通用しない、日本だけの概念でございます」と、そうおっしゃってました。まあ、そうでしょう。しかし要するに、日本以外では通用しない議論をしているということであります。

そもそも、「違憲・合憲の最終的判断を下すのは最高裁」というのが、わたくしの理解でございます。憲法学者、法制局長官にはその権限はありません。先日も、ある尊敬する元法制局長官とお会いしまして、「自分は軍事問題、素人だ」と言われて、わたし愕然といたしました。

冒頭述べたとおり、「著名な憲法学者や外務官僚には全員、自衛隊入隊を義務付けて、危険地域を体験させよ」と、こうマスコミでおっしゃっているそうであります。こんな暴論が許されるんであれば、わたくしもひと言申し上げたい。憲法学者内閣法制局長官こそ、戦争地域を体験されたらいかがでしょうか。まあ、こういうことを申し上げるのは、不謹慎かもしれません。

冒頭申し上げたとおり、彼らは「日本国憲法の下で、日本への武力行使の着手がない段階での武力行使違憲だ」と。「日本への武力行使の着手に至る前の武力行使は、たとえ国際法上、集団的自衛権の行使として正当化されるとしても、日本国憲法に反するんだ」と、こういうご説明をされるそうです。

しかしこのような、わたくしに言わせれば、20世紀の戦争概念に基づく解釈が今もまかり通っていること自体、若干、不思議でございます。残念ながら、よきにつけ悪きにつけ、21世紀の戦争概念というのは、今までの伝統的な概念を超えて、宇宙にもサイバーにも広がっております。このようなことは最低限、ご理解をいただきたい。知っててほしいことだと、わたしは思いました。

集団的自衛権国連の集団的安全保障等々について、日本の中で一部ですけれども、どこか否定的なイメージ、何か悪いことをしてるようなイメージがあるのは、実に不思議だと思っています。

考えてみてください。

日本が外国から武力攻撃を受けた時に、アメリカは日米安保条約によって日本を守るんですよ。この防衛する義務を負っているけれども、その根拠というのは、国連が各加盟国に認めている「集団的自衛権」なんです。

いざという時に自国を守ってもらう根拠となる概念を、そのように否定的に考えていること自体、わたしはどうしても違和感があります。そのような自己矛盾に近い議論が今も続いている国は、わたくしの知るかぎり、日本しかございません。

7月の衆議院の特別委員会で岡本行夫氏は、「国際安全保障環境の変化を見れば、行政府の部局である法制局が、直接的な国土防衛以外の行為は“すべてクロ”と判断してきたことが、果たして海外で日本人の生命と財産を守るために適切だったのか考え直す時期だ」とおっしゃっている。わたしはまったく同感でございます。

わたくしは憲法学者じゃございません。どちらかというと現実主義的な元行政官にすぎません。しかし、わたくしはこう信じています。憲法があるから国家があるのではありません。国家を守るために憲法があるのだと理解しています。

戦闘の、戦争の形態が根本的に変化した21世紀。憲法学者はなおまだ古い憲法の解釈に固執をする。しかし、もしそれで逆に国が守れなくなってるんだとすれば、それはいかがなものか。どうしてこの矛盾にお気づきにならないのか、わたしはどうしても理解できません。

さらに、ある憲法学者は「存立危機事態条項、それ自体憲法9条違反である前に、そもそも漠然として不明確で違憲である」という議論もあります。実に乱暴な議論だと思います。

さきにも述べましたとおり、世界の主要国の安保法制というのは「ネガ・リスト」で出来ているんです。このような形で明確な定義をしていない場合は少なくありません。それでは、ではその定義がないことが違憲になるんでしょうか。わたくしは断じてそうではないと思っています。

繰り返しになりますが、日本は三権分立の民主国家であります。立法府がつくる法律を、行政府は執行する。それが憲法や法律に反するか否かの判断は、最高裁の仕事であります。

アメリカの最高裁は最近、同性婚を合憲と判断いたしました。日本では、従来の論理の延長にない議論だということで批判がありましたけれども、同性婚というのも考えてみたら、従来は男女婚なんですから、その論理の延長上にはない議論であります。

なぜ、こんなことが民主国家で起きるか。

それは、この種の判断、偏固というものが認められるのは、最高裁だけだからであります。憲法学者や官僚にすぎない法制局長官には、そのような権限がないのは言うまでもありません。

最後に、平和安全法制全体についてひと言申し上げます。

この法案に反対される委員の方々。本当に現行法制だけで、21世紀の国際安全保障環境のもとにある日本を、守れると思ってらっしゃるんでしょうか。

もちろん領域警備のように、現行法の運用で、これを変えればなんとか対処できるものもあるかもしれません。しかし現行法ではどうしても対応できない種類の危機が生まれつつあることも、これまた悲しい現実であります。

今後、世界はますます不安定さを増す可能性がございます。このような時代に、将来政権を担う時がまた来るかもしれない責任政党のメンバーの方々。本当に「この法案は不要だ」とお考えなんですか。わたしには信じられません。そして、そう信じたくないのです。

責任ある立場にある方ほど、この種の法案が必要だということを内々理解しておられるのではないか、わたくしはそう信じたい。もし皆さんが将来政府の要職に戻って、その時にこの種の法案がなかった時に、どのようなことが起こりうるかを真剣に考えていただきたいのです。

参議院良識の府だと信じています。党利党略ではなく、机上の空論ではなく、現実の世界の実態に即した本音の政策議論を是非、お願いしたいと思います。法律論も重要でしょう。ただし法律論だけでは国家は統治できません。そこで必要となるのは、観念論だけではなくて、現実に即した高度の政治判断であるべきです。

国民の生命と財産を守る安全保障には、右も、左もありません。保守も、リベラルも、ありません。そこにありますのは、安全保障というのは、一億人を超える国民からなるこの国の、安全を確保する手段で、あらゆる事態に対応できる切れ目のない柔軟性を持つべきだと思います。

国民の代表である国会議員の皆さまが、そのような政治判断をするために選ばれてきたんだと、わたくしは信じております。民主主義は、最大多数の最大幸福を実現する制度でございます。今こそ、成熟した政治判断をお願い申し上げ、意見陳述を終えたいと思います。

ご清聴、ありがとうございました。

発言者:宮家邦彦(立命館大学客員教授

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